ずっとずーっと大好きだったブン太と、紆余曲折あって両想いになった。
そこから晴れて、お付き合いというものを始めることになった。
恋人だなんて、人を好きになるのすら初めての私にはすごくこそばゆいけれど、同時にどうしようもなく嬉しいのが本音だ。このところ、油断したら頬が緩みそうになるのを慌てて直す日が続いている。
……が。
ここ最近、私の頭を悩ませている問題がある。ズバリ、"距離の詰め方が全然わからない"というもの。
長らくただの友達だったから、急に恋人らしく甘えるなんてなんだか恥ずかしい。塩らしい私なんて自分でも想像できないし、かといって今のまま友達の延長線みたいな態度を続けていたら、せっかく彼女になれたのにもったいない。
ブン太の方も、どこか友達の時のノリで接してくるから、少女漫画みたいなあまぁい雰囲気はこれっぽっちもないのが現状だった。
ふぅ、と思わずため息をつく。考えてしまうのはもちろんブン太のこと。告白されたとき、勢いのままギュッと抱きしめられて、あの時は本当に天にも昇る気持ちだった。
もうちょっと、あんな風にいちゃいちゃしてみたいなぁ。……なんてね!
こっぱずかしすぎる思考を振り払うように頭を振り、私はドラッグストアの自動ドアをくぐった。
白すぎる照明を浴びながら、お目当てのコーナーに足を運ぶ。そろそろ手持ちのリップが切れそうだから、いつものやつを買おう。そう思って棚に手を伸ばした時、「新発売!」と書かれた鮮やかなポップが目に飛び込んできた。
はちみつの香りがするリップ美容液。パッケージも女の子らしくて、すごく可愛い。
気になってテスターを少しだけ嗅いでみると、ほど良く甘い香りがふわりと鼻先をくすぐった。
『――キスしたくなる香りのリップ♡』
ポップに書かれた謳い文句を目にした瞬間、ドキーッと心臓が大きく跳ねた。悪事が見つかった子どものように大袈裟に身を縮める。
ばくばくばく、と耳の奥でうるさく響く鼓動の中、脳裏に浮かぶのは、告白してきたときのいつになく真剣な表情のブン太。
ブン太は甘いものが大の好物だから、もしかして、そういうことに……。
何度も反芻した記憶に新たな火種がくべられて、一気に顔から火が出そうになった。
だめ。いけないわよ名前。こういうのは確か、ハニートラップって言うんじゃないの!?
そういうことにはあまり詳しくないけれど、なんとなく恥ずかしいことだとはわかっている。元に戻そう、いつものにしよう。自分に言い聞かせながらも、掌はくっついたように開かないし、リップも手から離れない。結局「はちみつの香りが好きなだけだし!」と心の中で誰に向けるでもなく激しく弁解しながら、吸い込まれるようにレジに向かった。
◇◇◇
新しいお化粧品を買うと、その周りも色々と整えたくなるのが女の子というものだ。
昨日はウキウキしながらお風呂上がりのボディケアなんかも念入りにやってしまった。自室の姿見に映る自分はいかにも女の子ですというような顔をしていて、思わず目を逸らしてしまったほどだ。ブン太に恋をしてからというもの、自分がどんどん作り替えられていくようだ。
今日は、なんだかいけそうな気がする。根拠のない自信に鼻歌を歌いながら、いつもは後ろで高く結んでいる髪の毛を大人しめのハーフアップに変えてみた。毛先も緩く巻くアレンジ付きだ。
リップ美容液は無色のものを買ったから、風紀委員のチェックには引っかからないはずだけれど。肝心のそこだけ、なぜかどうしても勇気が出ない。
かわいらしいミツバチのパッケージとにらめっこしているうちに家を出る時間になっていたようで、慌ててローファーを突っかける。結局、制服のポケットにリップを押し込んで、いつもの薬用リップだけを塗って登校した。
◇◇◇
今日に限って、ブン太と全然タイミングが合わない。朝は遅刻ギリギリになってしまったし、休み時間は友達に囲まれるし。「かわいくなったじゃーん!」なんて言われて悪い気はしない(というかめちゃくちゃ嬉しい)けれど、私の目的はそこじゃないのだ。本命の彼にちらりと視線を向けると、ほかのクラスに教科書を借りに教室を出るところで、完全にすれ違いだった。
その後も授業が長引いて休み時間が潰れたり、移動教室だったり。あれよあれよという間に昼休みに突入して、なんだか肩透かしを食らった気分で手洗い場に退散してきたのだ。
今頃彼は購買に走っているところだろう。せっかく髪型を頑張ったのに、見せる機会がないまま午前中が終わっていく。同じクラスだから視界に入ってはいるだろうけれど、どうせなら直接見せに行きたい。下ろした毛束をいじりながら、本当は話す口実が欲しいだけかもな、と瞼を伏せた。
ポケットからハンカチを出そうとした時、指先にふとチューブが触れる。
やましいことなんて何もないはずなのに、私はなぜか挙動不審にきょろきょろと周囲を見回し、誰もいないことを確認してから鏡と一緒にそれを取り出す。蓋を開けて、そっと唇に先を滑らせた。
んぱ、と上下の唇を合わせると、はちみつの甘い香りがふわりと漂った。馴染んで柔らかくなったそこは、普段使っているバームタイプのものよりもずっと柔らかく潤んで見えて、我ながら可愛い気がする。
ブン太もこれ、良い匂いって思ってくれたらいいな。
そんな期待を胸に抱き、浮かれる気持ちを鎮めるように息をつきながら教室へと戻った。
教室の扉を開けると、ブン太はサッカー部の男子たちに混ざって、楽しそうに漫画雑誌を回し読みしていた。
こっちとしてもまだ心の準備ができていなかったから、ひとまず自分の席に大人しく腰を下ろす。
すると、隣の席に座っていた仁王が、たまたまこちらを見て――そして、意地の悪い笑みを浮かべてニヤリと口端を上げた。
「な、なに……?」
「別になんも言うとらんき」
細められた瞳に面白がっている色が透けて見えて、意味もなく机の角をじっと見つめる。ご丁寧にリップまで塗り直して戻ってきた自分のすべてが、なんだか急に恥ずかしく思えてきた。この詐欺師のような男の目は、私の邪念を見透かしているに違いない。
「そういうのはカレシに指摘されたいもんじゃろ」
「そそそそういうのって別に何も!」
「カレシ」という単語の破壊力に、思わず弾かれたように顔を上げ、赤い頬を隠すようにぶんぶんと両手を振る。確かに、クラスの人気者であるブン太と付き合っていることは公認だけれど、他人の口から直球で言われるのにはまだ慣れない。というか慣れる気がしない。
「しっかし、紫もそんな顔するんじゃのう。ブン太様々じゃ」
「も、もうっ、からかわないでよ!」
仁王とは1年生の時から同じクラスで、その頃からからかいやすい奴としておもちゃ認定されているらしい。それに、私のそれなりにお転婆だった時期を知られているから、余計にやりづらい。
机の上であたふたしていると、突然、背後から聞き馴染んだ声が降ってきた。
「なーに楽しそうに話してんだよ」
「わっ、ブン太!」
振り返ろうとしたけれど、ずしりと頭の上に乗せられた顎の重みと、背後から両肩に回された腕の力に阻まれて、身動きが取れなくなる。
「おー怖い怖い。おいでなすったぜよ」
仁王がわざとらしく肩をすくめた。いちいち芝居がかったやつだ。私はブン太の腕に捕まったまま、怨念を込めた恨みがましい目を仁王に向かって飛ばす。
「わりーかよ。つーか名前も、俺がいない間に仁王と盛り上がりすぎだろい」
「男の嫉妬はなんじゃったかのう、ブン太」
「うっせ」
ポンポンと二人の間で軽い口喧嘩が交わされていくけれど、私の方はそれどころではない。
ブン太が、近い。肩に回された腕から彼の体温が直に伝わってくるし、頭の上から響く声が低くてドキドキする。男の子としての確かな重みを感じて心臓がうるさい。午前中いっぱい話せなかった分のご褒美だろうか。神様ありがとう、と胸の内で人知れず天に拝む。
「……名前も大変じゃの~。こんな四六時中、視線を飛ばしてくる監視役がおって」
「あ!? 仁王テメー余計なこと言うなよ」
「し、四六時中?」
「そうぜよ。おまんと話しちょるときもチクチクチクチク……」
「だーーっ!!」
「わ、ちょ……」
ブン太は顔を真っ赤にしたまま、突如として大声を張り上げて立ち上がった。そのまま、ひらりと身を翻して逃げ出した仁王の後ろ姿を猛烈な勢いで追いかけ始める。またやってる、とクラスのみんなが笑う。
背中から離れた温もりが名残惜しいけど、彼はそんなこともないらしく、教室の机をガタガタ言わせながら騒いでいた。
曲げた人差し指の背で、唇の下をそっと撫でる。
特別なことなんてなくていいのかも。追いかけっこの末にプロレスが始まりそうなその光景に、やっぱりいつも通りが一番幸せだよなぁと笑みが零れる。同時に、彼女になったからといって急に背伸びをした自分が変に甘えたがりなようで、すこし恥ずかしくなった。
やがて仁王を追い払ったのか、満足したらしいブン太が肩で息をしながらこっちに戻ってくる。隣の空席にどっかりと腰掛け、頬杖をついて口を開いた。
「あー……名前、今日帰り、文具屋寄っ」
会話の途中でこちらに顔を向けたブン太と真っ正面から目が合った。その途端、彼の言葉が変なところでピタッと途切れて固まる。
一瞬、視線が不自然に彷徨って、ブラウンの瞳がわずかに揺れた気がした。
「? どうしたの?」
「っ、あークソ、仁王の野郎……っ!」
ブン太はそう呻くや否や、顔をその髪色と同じくして、片手で乱れた赤髪をがしがしと激しく掻き回した。さっきから急なことの連続で、なんだか嵐に見舞われたように頭がぐるぐるしてきた。すると、さっきまで賑やかだった彼が急に静かになって、じっと熱のこもった目で見つめてきたから、それだけで脳内は彼に占拠されてしまった。
「帰り、絶対一緒だかんな」
「……う、うん、校門で待ってるから」
「おう。……じゃ」
パッと目を逸らし、逃げるように自分の席へと戻っていくブン太の後ろ姿を、私はぽかんとしながら見送るしかなかった。
「骨抜きもいいとこじゃき」
いつの間にか自席に戻っていた仁王を振り返ると、「プリッ」といつもの調子で軽くいなされてしまった。