朝からどうにも身体が重い。頭がぼーっとするし、こめかみの奥が鈍く痛んでいる気がする。念のため体温は測ったけれど、液晶に表示された文字は見事なまでの平熱を示していた。怠い体を引きずって仕方なく登校したはいいものの、現在絶賛ダウン中である。
「名字~、ペン落としたで! ほい」
「あぁ、おおきに……」
「なんや元気ないなー、顔白いでぇ」
「うん、ちょっとね……」
金ちゃんのいつも通りの元気な声が今の私の頭には容赦なく響いてしまい、思わず小さく顔をしかめる。すると、彼はハッとしたように口元を押さえ、急にボリュームダウンして「あ、スマン……」と眉を下げた。気を使わせてしまったことは申し訳ないが、取り繕うだけの元気もない。「大丈夫」とだけ返し、机の上にそっと突っ伏した。
そうやってなんとか午前中はやり過ごしたけれど、4時間目のチャイムが鳴る頃には、いよいよ無視できないほどに体調が悪化してしまった。冷房の風がやけに冷たく皮膚を刺すし、朝よりも頭痛の波の間隔が短い。昼休みに入るなり、私は観念して保健室へ行くことにした。
賑やかな廊下の端を覚束ない足取りで歩き、ようやく辿り着いた保健室の引き戸を引く。
「失礼します、1年4組の……」
会釈をしてから室内を見回すと、保健医の先生の姿はなかった。
ど、どうしよう。これは想定外だ。中学に入ってから保健室を利用したことがなかったから、こういう時にどうすればいいかわからない。ぐるぐる悩んでいると、白いパーテーションの向こうから「はーい」と、低くて心地のいい声が返ってきた。
聞こえたのは、落ち着いた男性の声だ。四天宝寺の保健医の先生は二人いたけれど、確かどちらも女性だったような気がする。他の先生だろうか、と思っていると、カーテンがさっと開いた。
「先生は今ちょっと職員会議に行っててな。俺はトイレットペーパーの補充に来ててん」
カーテンの向こうから現れた人物に、思わず体がフリーズした。
ミルク色の滑らかな髪の毛。中学生離れした端正な顔立ち。1年生どころか3年生の間でも頭一つ抜けた高身長。文武両道イケメンと名高い我らが四天宝寺のモテ男、白石先輩ではないか。
金ちゃんが所属するテニス部の部長で、校内外問わず圧倒的な人気を誇る有名人。ミーハーな私の友達も、彼のファンの一人だ。
普段の私だったら、彼と1対1で遭遇した時点で緊張のあまり倒れていたかもしれない。が、今は身体の不調が完全に勝ってしまっていた。
「顔色だいぶ悪いなぁ。まぁ座りや」
白石先輩はぼけっと立ち尽くす私の様子を瞬時に察して、丸椅子を引いてくれた。
「寒い?」との問いかけにこくりと頷くと、棚から手際よくひざ掛けを取り出して、私の足元にふわりと掛けてくれる。流れるような自然な動作に、そういえば白石先輩は保健委員なんだっけ、と思い出した。
「教室、エアコンきいとるもんなぁ。女子には寒すぎるわな」
そう言いながら、彼は慣れた手つきで机上の収納から体温計を取り出し、リセットボタンを押して私に手渡した。
「はい、これ挟んでな」
「……ありがとうございます」
軽く会釈をして、受け取った体温計を脇の下に滑り込ませた。
冷静に考えれば、この状況は大分ラッキーなのかもしれない。じわじわと実感が湧いてくるにつれて、ないはずの熱が頬に集まっていくような気がした。体温計が誤差を起こしたら大変だと、必死に何も考えないように努める。
白石先輩は引き出しを開くと、来室カードをバインダーに挟んでペンを持った。
「ほな、待ってる間にこれ書いとくな。1年……えっと、4組やったっけ。名前は?」
「はい、名字名前です」
「名字名前……な。よし。ほんなら、いつから具合悪い?」
「朝からです……。4時間目から、もっとしんどくなってきて」
質問の答えがさらさらとカードに記入されていく。ペンを動かす彼の左手には丁寧に包帯が巻かれている。
あれが「毒手」だろう。金ちゃんが言うには、触れるだけで人を殺せるとかなんとか。そんな人間が存在するはずはないと冗談半分に聞いていたのだが、実際目の前にしてみると、なんだか物々しいオーラを放っているような気がしないでもない。
「朝ごはんはちゃんと食べてきた?」
「……ゼリーだけ、食べました」
「えらいえらい。食べへんよりは全然ええよ」
毒手とは反対に、淀みなく綴られる彼の字はイメージ通りきれいで、思っていたよりおおらかだった。どこか温かみがあって、優しい性格を思わせるような字、というか。いつも隣の席で、今にも紙を突き破りそうな金ちゃんのダイナミックな字を見ているせいだろうか。その綺麗な筆跡をぼうっと眺めてしまう。
普段の私なら、こんな風に男の子の手元をじっと見つめるなんて恥ずかしくてできなかっただろうけれど、頭が働かないのをいいことに、ただただその指先を目で追っていた。
するとしばらくして、ピピピ、と無機質な電子音が静かな保健室に響いた。
「お、鳴ったな。ちょお見せてな」
白石先輩が手を伸ばし、私が差し出した体温計を受け取る。画面を覗き込んだ彼が、ふっと表情を和らげた。
「36度2分。うん、熱はないな。良かった良かった」
「あ、良かったです……」
「でも、体調不良は熱だけやないからな。冷えたり、気圧のせいだったり、まぁ色々あるわ」
熱がないからといって追い返そうとする様子は微塵もなく、白石先輩は穏やかな口調のままアルコール綿で体温計を拭き、所定の仕切りへと戻した。
「カードはこれでオッケー。……どうする? このまま椅子座って休むか、それともベッドで横んなる?」
「んー……横になります」
本音を言えば、朝からずっと気を張っていて少し疲れてしまった。正直に零せば、「了解。ほなベッド用意するから、ちょっと待っててな」と面倒臭さなど微塵も感じさせない微笑みを残し立ち上がった。パーテーションの奥へと入っていき、シーツを整える軽やかな音のみが聞こえてくる。
「毛布とブランケット、どっちがええ?」
「毛布でお願いします」
「はーい、毛布な」
彼のテキパキとした、けれど少しも急かすことのない対応を見ていると、まるで本物の保健医の先生か、あるいは優しいお兄ちゃんのようで、不思議な安心感に包まれていく。こういうところが人気なんだろうな、とカーテンの裏で動く影をぼんやり目で追いかけた。
「準備できたで。立てるか?」
白石先輩がパーテーションから顔を覗かせ、私に向かってそっと左手を差し出してくれた。包帯が巻かれた、例の毒手。頭がぼんやりしていたせいか、心の中にあった疑問がフィルターを通さず、そのまま口から零れ落ちてしまう。
「……毒手」
「え?」
「はっ。す、すみませんっ」
白石先輩の動きが一瞬、ピタリと止まった。ハッと我に返り、顔が一気に熱くなる。慌てて立ち上がって謝ろうとすると、白石先輩はにやりと口元に弧を描いた。
「ははーん、さては金ちゃんから聞いたな?」
そう言って、彼は包帯の巻かれた左手を私の前にひらひらと見せてみせる。
「あのゴンタクレに言うこと聞かせるには、これが一番やねん」
悪戯が成功した子供のように目を細める白石先輩。その瞬間、それまでどこか大人びて見えた彼の表情が、年相応の男の子の顔になって、心臓がドクンと音を立てて跳ねた。それを皮切りに、具合が悪くて大人しかったはずのそこが急にうるさく主張し始める。
「ほな、ゆっくり休みや」
恥ずかしくて顔を上げられないままベッドに入ると、白石先輩は私の胸元まで優しく毛布を掛けてくれた。
「おやすみ」
シャー、と静かにカーテンが引かれ、彼の姿が見えなくなる。去り際、ほんの少しの甘さと、すっきりとした清潔な石鹸のような匂いがした。それが彼の残り香だと気づいた瞬間、今度こそ本当に顔がカッと熱くなっていくのが分かった。
保健室の入り口の引き戸が、ガラガラと静かに閉まる音が聞こえる。
完全に一人になったのだと理解した途端、緊張の糸が切れたように深く息を吐き出し、静かになった空間で毛布にくるまりながら寝返りを打った。
――おやすみ。
保健委員の仕事以上の感情などないだろうに、その低く心地いい響きが、今も耳の奥で木霊して離れない。
あれは、本当に毒手だったのかもしれない。
触れられてもいないのに、こんなに胸が苦しい。
彼が掛けてくれた毛布の暖かさと、胸の奥で暴れる小さなくすぐったさに包まれながら、私は熱を帯びた身体をあやすように、ゆっくりと深い眠りへと落ちていった。