じわりじわりと恋になる

担当の先生が体調を崩して、予定されていた数学の授業は急遽自習に変更となった。
出欠確認の代わりに配られた課題プリントは建前みたいな難易度で、10分もすれば解き終わった人がちらほら出てきていた。
斜め前に座る友達も、おそらく暇を持て余している。が、普段は騒がしい教室がこの時間に限ってはなぜかしんと静まり返っていて、仲良くおしゃべりができる雰囲気でもない。
手持無沙汰解消のため、読みかけだった文庫本をしぶしぶ鞄から出す。進んでする読書は好きだが、惰性で読むのは苦手だ。それでも読み始めてしまえばすんなりと入り込める。最初の一歩が億劫なだけなんだよなぁ、と心の内で呟きながらぱらぱらページをめくった。

名字さん」

目当ての文章の近くに来たところで、左隣から名前を呼ばれる。
顔を向けると、伏せられていたはずの千歳くんの瞳と真っ正面から目が合った。
彼が授業に出るのは珍しい。学生に抱くにはおかしな感想だが、それもそのはず、彼は一日の半分も来るか来ないか。来たとしても大体の時間を学校のどこかしらでサボって寝ているような人なのだ。
その態度から予想できる通りの低い出席率は、面白いこと好きのクラスメイト達に賭けの対象にされている。今日も1時間目の直前に登校してきて、クラスがわーとかおーとかいう太い叫びに包まれた。彼も自由だが、この学校も大概自由だ。

「どないしたん?」

首を傾げると、千歳くんは長い指先をそろそろと動かす。向かう先は私の机の上のブロックメモ。なんの変哲もない無地の正方形のそれは、勉強のために買ったはずが、もっぱら授業中の落書きにばかり駆り出されている。

「一枚くれんね」
「これ? ええよ、はい」

百枚セットのそれを一枚くらい渡したところで支障なんてないので、もちろん快諾する。本を机上に伏せて、その手でメモの束から一枚取り千歳くんに手渡した。丁寧に両手で受け取り、「だんだんなぁ」と微笑んだ彼に会釈を返す。
そういえば、彼と話すようになって、当初は聞き慣れなかった九州弁もかなり耳に馴染んできた。
私の周りの大阪弁話者は、せかせかというか、キビキビ話すことが多い。
それに比べて、彼ののんびりとした喋り方(多分方言だけが原因ではないけれど)はどこか安心する。前にそう零したとき、「俺も名字さんといるとホッとするたい」なんて言われてしまった。その表情が普段と輪をかけて柔らかで、むず痒い気持ちになったのを覚えている。

自分の机に向き直った千歳くんは、迷いなく紙を折り始めた。机に不釣り合いなくらい大きな体をかがめて、手元に神経を集中させている。
静かな教室に、紙の擦れる音が微かに響く。気づけば本を読むのも忘れてぼうっと眺めていた。
関節の出た、男の子の手。大きくて少し平たい手のひら。
私のより三回りは長いであろう指先は、迷いなく正確に、けれど驚くほど優しく紙の端を折っていく。
彼のテニスはテクニック重視の技巧派だと聞いたことがあるが、この様子を見れば納得である。
ちらりと盗み見た横顔はどこかご機嫌で、心なしか口元が緩んでいるようにも見えた。
時々びっくりするくらい大人っぽいのに、折り紙に夢中になるような子どもっぽい面もあるのだから、なんだか目が離せない。
――そういうところに、惹かれるんかなぁ。
無意識に恥ずかしい言葉が頭をよぎって、思わずぎくりと肩を揺らしてしまった。幸い気づかれてはいないようだったから、そっと読みかけの本に意識を戻した。

名字さん」
「ん?」

しばらくして、再び千歳くんから声がかかった。顔を上げると、何やら確信犯めいた笑みを浮かべている。
これを見ておけ、ということかな。少しわくわくしながら、何かを覆っている両手に視線を注ぐ。

「鶴ばい」
「おぉ~」

大きな手が花を咲かせるようにぱっと開くと、その真ん中に、小さな折り鶴がちょこんと居座っていた。
折り目も尻尾までぴったり揃っていて、背筋がピンと伸びている。
メモ用紙から生まれたとは思えないほど誇らしげに羽を広げたその姿は、作った本人の人となりのように伸びやかで自由な感じがした。

「千歳くん、器用やなぁ」
名字さんに言われると嬉しか」
「うっ」

こともなげに返されて、詰まったみたいな声が出た。
まただ。千歳くんの、思わせぶりなことを言う癖。
男の子にそんなことを言われる機会なんてない私はその度ドギマギしている。が、本人は普段とひとつも変わらない様子なのだから、まったく色男様様である。
千歳くんは完成体を机の隅に置いて、満足気に姿勢を寛げた。長い足が存分に机からはみ出している。
その様子を見届けてから、ふと自分も同じことをしてみたくなった。
早速メモを一枚切り離して鶴を折り始める。が、そううまくいかなかった。折り紙なんていつ以来だろう。折り方を途中で間違えた上に折り目も微妙にズレている。
頭がこんがらがってとりあえず一旦リセットしようと紙を戻す。目の前の鶴未満の物体を見つめながら、千歳くんは私より手が大きいのにどうしてあんなにきれいに折れたんだろうと不思議に思った。
……私が不器用なだけなんかな。
暇つぶしのはずが、悲しい事実が露呈してしまった。せめて今度はもっと丁寧に折ってみよう、と意気込んでもう一度作り始める。

それから格闘すること数分、端の重なりが少し甘い紙を強引にまとめ上げ、ようやく形になった。
机の上に置いてみるけれど、どうしても千歳くんの鶴ほどきれいには見えない。せっかくできたのになんだかくたびれた感じになってしまった。悪あがきとして両方の羽を持ってピンと伸ばしてみると、さっきよりいくらかはマシになった気がする。

「ね、千歳くん」

思わず声をかけてから、しまった、と後悔が押し寄せる。こんなへにょへにょの鶴を見せてどうしようというのだ。千歳くんの綺麗な鶴の隣に並べるなんて、台無しもいいところではないか。なんでもないと言いかけたところで、振り向いた彼と視線がかち合った。

「なんね」
「やややっぱなんでもないわ」

優しく微笑まれて、思わず手で作品(とも言えないが)を覆ってしまった。きっとさらに萎びてしまったことだろう。
けれど、千歳くんは急かすこともなく、ただ愛おしいものを見るような、柔らかい眼差しで私の手元をじっと見つめている。
その視線もさっきの発言から、「特別」を感じ取ってしまいそうな自分がとんだ自惚れ屋な気がして、これ以上顔を見られたら、私の勘違いがすべて表情でバレてしまいそうだった。
観念して、おずおずと完成品を彼との間に差し出す。緊張しすぎて、なぜか献上するような姿勢になってしまった。
花が咲く……とは言い難い、もじもじと開かれた私の手にちょこんと乗ったそれは、千歳くんのものより控えめに首を垂れていた。やっぱりさっき覆ったせいで微妙に萎びているし、重心が偏っているのかどうしても直立はしなくて、尻もちをついたような姿勢で千歳くんの方を見上げている。
ええい、ままよ。

「……つ、鶴です」

さすがにそれくらいは伝わる見た目ではあるけれど、何とか言わないといたたまれず、頼りなく注釈をつけ足した。
そろりと上目で彼の方を窺うと、目線をじっと手の中に注いだまま微動だにしない。
や、やばい、変に思われたかも。
目の前をかすめた不安を塗り替えるように、千歳くんの表情がぱっと明るくなった。

「むぞらしか~」
「わっ」

普通の声で、でも静まり返った教室では誰もが振り返るほどの音量で言われて、さっきまでとは違う意味で体温が上がった。
反射で勢いよく顔を上げると、その視線はもう鶴などに向けられていなくて、代わりに瞳いっぱいに私の顔が映っている。
どうしようと千歳くんの方を見るけれど、彼はどこ吹く風。私だけをまっすぐ見つめて、反応を窺うように首を傾げている。いつもならすぐ逸らしてしまうのに、今はなぜか目が離せなかった。深い茶の瞳に搦め取られるような心地がしてたまらず俯く。
髪の毛でカーテンを作ると、膝の上でそわそわと落ち着かない自分の指しか目に入らなくて、それが余計に緊張を高めた。耳の奥がどくどくとうるさくて落ち着かない。
教室にぽつぽつと雑談の声が戻り始めて、はっと我に返った。これじゃあ「あなたを男の子として意識しています」と全身で白状しているようなものではないか!
頬は絶対に赤くなっているだろうけど、気にしたら負けだと自分に言い聞かせながら、必死に平静を装って会話を続けた。

「で、でもなぁ。千歳くんみたいにうまくできんかったんよ。なんやぐちゃっとしてるし」
「そぎゃんこつなか、丁寧にできとるばい」
「そうかな……?」

それでもまだ納得がいかなくて、私は自分の不格好な鶴を見つめたまま腕を組み、うんうんと考えを巡らせる。
そんな私を黙って見つめていた千歳くんだったが、ふと何かを思いついたように、その整った顔を綻ばせた。

「そんなら交換せんね」
「交換?」

予想もしなかった提案に、私は目を丸くして千歳くんを見上げた。

名字さんの鶴、俺は好いとる」

千歳くんはふわふわと癖毛を揺らして、こどもみたいに笑いながら言った。

「……ええの?」
名字さんのがよか」

恐る恐る問うたところにはっきりと言い切られて、一瞬完全に思考が固まった。
いやいや、深い意味はないって。私はクラスの中でも特別可愛いわけでもない、ごく普通の、どこにでもいる平凡な女子。対する千歳くんは、サボり魔だけどテニスが強くて、優しくて、お茶目で、かっこいい男の子。そんな彼が、私の、という点に特別食いつくはずもない。
単に私の鶴にブサカワ的な魅力でも見出したのだろう。そうはわかっていても、鼓動が暴れるのを抑えられなかった。

「いかんと?」
「え、ええよ!」

追撃といわんばかりに眉を下げて私を見つめてくる。その表情が、子犬……ではないけれど、断るなんてできない、でも嫌ではない謎の強制力を持っていて、私はまんまと彼のペースに巻き込まれてしまう。
慌てて表情を転がす私を見つめる千歳くんの目がまたぱちぱちと瞬いて、柔らかくたわんだ。その顔を見た瞬間、胸が急にきゅっと狭くなる。
あぁ、今日はもうだめかもしれない。いつもなら流せるはずの千歳くんの気まぐれが蓄積して、私の細い理性をじわじわと焼き切ろうとしていた。
こーかんばい、と千歳くんの鶴が尻尾を摘まれて私の手の中に運搬され、私の鶴も千歳くんの手に収まった。やっぱり直立しないそれは改めて見ても彼のものより不格好で、なぜ彼がそちらを欲しがったのか分からなかった。

やっぱりきれいやなぁ、なんて眺めているうちにチャイムが鳴って、各々席を立ち始める。結局、お互いの机の上にお互いの鶴が乗るという変な状況になった。千歳くんはとても満足げにニコニコしていて、私はといえば立ち上がる余裕もないまま席に座っていた。
友達が私たちを見て遠巻きにニヤニヤしているのがわかる。まるで水を得た魚だ。あとで質問攻めに遭うに違いないと、ひっそりため息をついた。
とりあえず次の時間の用意をしていると、女子の声が軽やかに色めき立った。発生源に顔を向けると、教室の入り口に白石くんが立っているではないか。
文武両道に才色兼備を体現したような彼は、四天宝寺随一の女子人気を誇っている。滅多に接点のない有名人を前に、私はにわかに身を硬くする。
部活の用事でも伝えにきたのだろう、千歳くんの姿を捉えるとまっすぐにこちらに歩いてくる。席を去るのも不自然な気がして、ただただ借りてきた猫のように背筋を伸ばすことしかできない。
お願い、その机の上の妙な物体には触れんといて……!
千歳くんの綺麗な鶴ならまだしも、私が作ったあの不格好な残骸が白石くんの目に触れるなんて、恥ずかしさで死んでしまう。私は心の中で必死に念じた。

「千歳、今日はちゃんと授業受けとったんやな……って、なんやこれ」

近づいてきた白石くんが彼の机上に視線を落とした。その先にあるのは、願い虚しく私の駄作。
み、見つかってもうた。
咄嗟に自分の鶴を両手で隠そうとしたけれど、時すでに遅し。白石くんの綺麗なアーモンドの瞳が、じっと卓上の不格好な物体を捉えている。

「鶴ばい」
「いや、それは見たわかんねん。なんで鶴やねん」

こともなげに答える千歳くん。怪訝そうな顔をする白石くん。動揺しまくっている私。奇妙な三竦みが完成してしまい、膝に置いたままの手を無意味に握ったり閉じたりした。絶体絶命の状況である。これなら多少不自然でもどこかに行けばよかったと悔やんでもあとの祭りだ。

名字さんと一緒に作ったけんね」

急に話の矛先が私に向けられて、心臓が飛び出るかと思った。思わずそっちに顔を向ければ、二人が私の方を見ている。な、と同意を求められて、ひ、と情けない息が喉の奥から出た。

名字さんの鶴ん方がちまいけん、むぞらしかね」
「そ、それは、折るのに苦戦したからで、」

白石くんが私の鶴と千歳くんの鶴を見比べる。ただそれだけなのに、私の心臓は最後の審判を待つ人のようにどんどこと人体らしからぬ音を立てて暴れている。

「ほんまやな」

形の良い唇がにっと弧を描いて、私の貧弱な情緒はいよいよショートを起こした。あぁ、優しいとは知っていたけれど、私のような凡百な民草にも微笑みを向けてくれるだなんて。彼を思う女子に背後から刺されやしないだろうか、と本気で周囲を見回したくなるほどの恐れ多さだった。

「愛及屋烏たい」

緊張で挙動不審になっている私をよそに、千歳くんが何かよくわからない言葉を使った。

「あいきゅう、おくう?」

とりあえず繰り返してみるが、意味はわからない。方言、ではないと思うけれど。見上げても彼は相変わらず黒髪をふわふわ揺らすだけで、答えを教えてくれそうにはなかった。
頭上にはてなマークを浮かべていると、すぐ近くから深いため息が聞こえた。そうだ、白石くんがいたんだ。

「……なんやけったいな奴に目ぇつけられとるみたいやな」
「え?」

声の方へ振り返ると、白石くんが心底同情するような目をこちらに向けていた。
私にはさっぱりだが、彼はさっきの言葉の意味がわかったのだろう。一瞬視線を持ち上げて千歳くんの方を見ると、再びわざとらしく息を吐いた。いまいち意図がわからず、イケメンはため息ついても絵になるなぁ、なんて呑気に見ているしかなかった。

「……千歳は大変や思うけど、悪い奴ではないねん。まぁ頑張ってな」
「う、うん?」

絞り出したような声にとりあえず頷くと、「悪い奴では、ないねん」と念を押された。それは知っているが、何が「頑張って」なのだろう。
白石くんは、噛み合っていない私たちの会話を面白そうに見ている千歳くんを睨め付けると、「迷惑かけるんやないで」と釘を刺してから自身の教室へ帰っていった。
何一つ意味がわからないのに、どうやらひと段落ついたらしい。というか用事があったんじゃなかったのかな。私は呆然と去っていく学ランの背中を見つめ、ようやく肺に溜まっていた息を吐き出す。

「白石はよか奴ばい」

頭の後ろで手を組んで、千歳くんがのんびり呟く。その声音があまりにもいつもの彼らしくて、さっきまでの緊張がするりと解けた。
千歳くんは誰に対してもこうなのだろう。だから毒気を抜かれるし、用事だって忘れてしまう(良くないけれど!)。
白石くんも大変だなぁ、と頭の片隅で思いながら、このどこまでもマイペースで、でも一緒にいると不思議と心が安らぐ彼の空気感が、たまらなく愛おしく感じた。
私が彼に惹かれているのは、ただこの居心地の良さが理由に違いない。そう、決して恋なんて大それたものじゃない! と心の中で必死に言い聞かせる。けれど、さっきから熱を持ったまま落ち着いてくれない心臓が酷く主張してきて、自分の単純さがたまらなく恥ずかしくなった。

「……千歳くん、私に目ぇつけてるの?」

緊張の反動からか、気づけば心の中の疑問がそのままぽろりと口から零れ落ちていた。
違う、と一言言ってもらいたくて。そう言われたら安心できる気がしたから。
私なんて本当に普通で、特別かわいくもない。不器用で、鶴はしなしなで、引っ込み思案で。
そんな私を特別に思ってくれているなんて、ありえない話で。
でも、もし。もしも、そういう意味だったら。
頭の中で思考がぐるぐると空回りして、私は自分でも自覚できるほど激しく百面相を繰り返していた。
すると、千歳くんはぱちぱちと瞬きをしてから、低く、愉しげに身体を揺らした。
私の百面相が落ち着くのを待って、じっとこちらを覗き込む。悪戯を仕掛けた子供のような、けれどどこか熱を孕んだ瞳が、私を捉えて離さない。

「秘密ばい」

まっすぐに射抜かれて、もはや逃れる術はないことを知った。